信楽を詳しく

                      

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知りたいところに手が届く。信楽や登り窯の疑問のあれこれにお答えします。

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滋賀県の南東、三重県との県境に位置する標高300m弱に位置する高原で、山に囲まれた盆地です。古琵琶湖層の良質な粘土に恵まれ、古くから陶器産地として栄えました。また、朝宮(あさみや)地区でつくられている「朝宮茶」は日本最古のお茶とされ、日本五大銘茶のひとつです。

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日本古来の陶磁器産地のうち、中世から現代まで生産が続く代表的な6つの窯を総称したもの。
信楽焼のほか、瀬戸焼・常滑焼・越前焼・丹波立杭焼・備前焼があります。
信楽では鎌倉時代にはすでに陶器が作られていました。農耕用の水瓶など日用雑器が出土しています。常滑の技術が導入されたと考えられています。

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鎌倉時代には水瓶や種壷といった日用雑器。室町・桃山時代から茶道の興隆によって脚光を浴び、茶陶は珍重されるようになりました。
江戸時代に入ると食器・調理道具をはじめとした多種多様なものが作られ、庶民生活に広まります。明治からは製糸用糸取壷や藍壷が、大正には耐酸耐水陶器が作られ、日本の近代化を支えました。
火鉢の生産は江戸時代にはじまり、時代を通し主力製品として大量に焼かれました。その需要は電気、石油暖房器具が普及する昭和30年代まで続きます。有名なたぬきの置物が有名になったのは、昭和26年天皇行幸がきっかけです。昭和40年頃からは植木鉢が主流に。昭和56年頃からは建築陶器。そして現在では、傘立や庭園陶器、インテリア、食器など幅広い焼き物が生み出されています。

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火袋と焼成室9室からなる「連房式登窯(れんぼうしきのぼりがま)」です。明治から昭和にかけて改修・補修を繰り返し、最後の改修は昭和40(1965)年頃になされました。平成6(1995)年頃まで使われていました。平成21(2010)年に窯と敷地一帯の整備・改装に着手し、「Ogama(おおがま)」としてオープンしました。
登り窯は、豊臣秀吉の朝鮮出兵(1595年、1597年)から引き上げる際に連れ帰った朝鮮陶工により九州へ伝えられ、本州に広まりました。信楽へは江戸時代初期に伝わり、大物が焼けるよう間口や奥行が大きく、大量生産のため10室前後ある長い窯が造られました。世界大戦後の火鉢需要が最盛期の頃には、中心地の長野地区に100基の登り窯があったと記録されています。

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「焼き物が割れないように」の願いを込めたそうです。
他の窯元でも9、11、13室など長く大きな窯が造られました。

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余熱を利用し、下の間(ま)から順に焚いていきます。
1)一番下の火袋(ひぶくろ)に火をいれ、焙り焚きを1昼夜以上行います。これにより上の間が予熱され湿気が取れます。
2)1の間に移り、窯の両側から薪(割木)を投げ込みます。狭い焚き穴から品物に当てず、かつ火ノ前へ均等に投げ入れる技術が求められます。焼成温度約1,300℃になるよう、炎の色で温度を見極めました。
3)焚き上がれば2の間、3の間へと順に移り、同様に焚き続けます。Ogamaの登り窯(9室)では5日間以上火を絶やさず焚いていました。二人一組で6時間交代、臨時の日雇いだけでなく子供まで参加したそうです。
4)一番上の「果ての間」まで焚き上げたら、窯から出せるまで冷まします。急激な温度変化が起こると品物が割れてしまうのです。
5)窯出しを終えれば、さらにその余熱で生素地を乾燥させ、熱を余すところなく利用しました。
6)その後、次の窯焚きに備えて窯の補修を行います。また、良い物が焼けるように改良が重ねられました。

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まず、エネルギー事情の変化により、燃料が薪から電気・重油(オイルショック以後使用されていない)・ガスに転換してきました。薪は高価かつ大量に必要で、品物の値段も高くならざるをえません。
次に、焼成日数がかかるために回転率が悪い。準備から補修まで1か月以上を要し、多くても年に12回程度しか焚けませんでした。
また、重労働であること。焼く前の生地はもちろん、窯道具であるサヤ・ツク・棚板もまた重く、それらを持って階段を上り下り、狭い窯に詰めまた出すのは大変な作業でした。さらに焚き上がるまで火を絶やすことは出来ません。
そして、良品率が悪いため。他の穴窯に比べれば工夫されているとはいえ、ひとつひとつは不均一で、鉄粉や割れなども起こりやすいのです。
こういった理由から、登り窯を使う窯元も登り窯自体も激減しました。

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