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2010.10.27
【朝日新聞】おんなの一生『父と母』

おんなの一生 石野 小よし
『父と母』 S41.7.4 朝日新聞掲載
善良で仕事熱心 はげしい窯元の盛衰


京都の古い家のように、石野小よしさんの母家にも、べんがら(紅殻)が塗ってあった。ひさしが深い。その下に形を整えた植木ばちが積重ねてある。
日清戦争の前の年—明治26年8月21日生れ、72歳。信楽(しがらき)では窯元(かまもと)を焼き屋とよぶ。小よしさんは焼き屋の娘。そして焼き屋の男にとつぎ、9人の子どもを生んだ。髪は白く、歯もおおかた抜けてしまったが、ポッチャリした小さな顔に、形のいい目鼻が品よく、若々しい。
子どものころ、生家は没落しかけていた。小学校を出ると、京都へ女中奉公にやられた。いまもほのかな京なまりがのこる。涙もろかった。気ままな夫に仕え「家」を守ってきた忍従の歳月の重みが、ズシリと来る。
夫はすでになく、息子が家業をついでいる。中学校を出た孫も手伝いを始めた。—信楽焼とともに浮き沈みした小よしさんの話をきかせていただこう。
「父はろくろ師でございます。納屋のひさしの下にろくろを置いて、ひとりで土をひねっておりました。手回しろくろいうて、自分の手で回しては、土の形を整えてゆく、昔ふうのやり方でございます。おもに一升徳利や二升徳利をつくっとりました。私がものごころついた時、もう父の頭は白うなっておりました。お経を読むのが上手で、朝夕、おぶったん(仏壇)の前で、おつとめしてはりました。が、背中を丸うして、明けても暮れても、土をいじっている—そんな父の姿がやはり1ばん印象に残っとります」

力のいる”土もみ”
「土をこねるのは、おかあさんの仕事でした。”土もみ”いうて、木の台の上に土を置いて、両手でこねるのでございます。小手先ではあきません。体中の力でもみ、こね、のばし・・・。そうそう、秋が深まって、冷たい風が仕事場を吹きぬけていく日でございました。土をもんでいる母をみて、わたし”おかあちゃんの顔、カキの実みたいに赤うなった”いうて、笑われたこと覚えとります。それほど力のいる仕事でございます」
「そのころは、えらい時代やったそうで・・・。信楽焼はいつも時節の移り変わりの中で、身もだえしとります。近ごろでも、ついこないだまでは火ばちが全盛でした。そやけど、電熱器や石油ストーブが使われるようになって、いつのまにか火ばちは忘れられてしまいました。いまは植木ばちです。ガーデン・セットとかいうて、庭に置く陶器のテーブルやイスなんかも、どんどんつくられています
「私の子どものころも、こんな変り目でしたんやなァ。それまで使われていた茶つぼや土びん、あんどん用のさらなどの売れ行きが年々、減っていったのです」

茶つぼ献上も廃止
徳川時代、信楽の茶つぼは毎年江戸の将軍家に献上された。京都の宇治茶を詰めたこの「ご用茶つぼ」は、威勢よく東海道を上っていった。高さ1メートルほど肩に4つの「耳」がつき、下のほうはほんのりと白いので「4つ耳・腰白のつぼ」と呼ばれた。諸大名にも買い上げられ、年に80本ぐらい送った——と古文書にある。
この習慣は維新後に廃止され、明治15年頃からはお茶屋さんでも、ブリキ張りの茶箱が使われ始めて茶つぼつくりは完全にストップした。「ようわかりませんが、今の生活革命とかいうのと同じもんが、その頃にも始まっとったんですなァ。おんなにはのうてならんお歯黒つぼはいらんようになるし、ランプが使われだしたので、あんどんざらは売れませんし・・・。時代に取り残された父は、細々と徳利をつくっとったのでございましょう」
「徳利ひとつが5銭か7銭ぐらい。私を入れて8人も子どもがおりましたから、なんぼ物が安いいうても、暮らしは大変だったと思います。父や母のところへ借金とりが来て”貸したもの返せ。証文がものいうで”と、大きな声を出していたことも覚えとります。子供ごころに、親がかわいそうで・・・。泣いている私に”こわいことあれへん。おとうちゃんもおかあちゃんも、がんばるさかいにな”いうて、抱いてくれた母の顔、よう忘れません。ポロポロ涙をこぼしてはりました」

家はとうとう没落
信楽のおんなは、働きものといわれた。なかでも焼き屋の女房は、つらい明け暮れであった。「サラリーマンのところへゆうことは思いませんけれど、焼き屋だけはご免こうむりとうます。しんどうますもん」—
現代のある窯元の娘さんの言葉。子どもの小よしさんには、無論、こんなことはわからなかった。けれども、彼女の記憶に沈む母は、手ぬぐいをかぶって、土と汗まみれていた姿だけだ。
職人肌の父と、働きものの母と——善良で、仕事熱心で、時流にのる才覚や機転とは縁遠かった親たち。
「後になりますけど、家はとうとう没落し、嫁入りした私をのこして、みんな大阪へ移りました。ほら、見えますろ、あの土蔵(くら)のある家、あれが子どもの時分に住んでいたところで・・・」
高台にある小よしさんの座敷から、庭ごしに大きな土蔵がみえた。窯元の盛衰は意外に激しいのである。