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2011.01.15
【朝日新聞】おんなの一生 『女中奉公』

おんなの一生 石野 小よし
女中奉公 S41.7.7 朝日新聞掲載
生れて初めての汽車 めずらしずくめ、京の町


勝った勝った——日露戦争の終わった明治38年、小よしさんは小学校6年生になっていた。このころ信楽焼の窯元(かまもと)は新時代にふさわしい焼物づくりに血眼になっていた。それは火ばちや便器や、糸取りなべといって紡績工事で製糸に使う器具であった。が、まだ技術的にうまくゆかず、生産もわずか。仲買に買いたたかれたりして、苦しみもだえていた。

前夜は母に抱かれ
「そやさかい、小学校をおえるると、高等科へもゆかれませんで、働きにゆくことになりました。ちょうど、京都の売楽屋さんへ嫁入りしていたことがおへんさかい・・・と母が抱いて寝てくれました。向こうへいったら、ご主人様にかわいがってもらうようにするのんやで・・・母は耳にタコができるぐらいきかせた話を繰り返すのでございます。」
翌朝、親類のおじさんに手を引かれて家を出た。お下げ髪にもめんの筒そで、わらじばきといういでだちであった。
「信楽には、まだ鉄道がついとりませんなんだ。三里(約十二キロ)ほど離れた水口(水口)町まで歩いて、貴生川(きぶかわ)駅から草津線に乗るのでございます。しっかりやらんとあかん——えらい気イ張ってたんやと思います。おとなの足にも負けずに歩きましたよ」生れて初めて汽車に乗り、草津線で東海道線に乗り換えて京都へ。すでにチンチン電車が走っていた。が、彼女いく烏丸松原方面には通じていなかった。初めてみる大都会のにぎやかさ。目をキョロキョロさせる彼女は、おじさんから「危ないで」と、幾度も注意されたことを覚えている。

電灯見てびっくり
「先方様へ着いたのは、夕方。奥様にごあいさつしていたら、部屋がパッと明るうなりました。みちみち、京都には電灯という便利なもんがあると、きとりましたが、ランプしか知らんいなか娘は、びっくり仰天でございます。思わず、とんきょうな声をあげたのでございましょうか、えらい笑われました。緊張と恥ずかしいのとで、どっと汗が噴出しましたら、年のいったおばさんが、”まぁ、汗をふきなはれ”いうて手ぬぐい貸してくれはれました」
「このおばさんは、仲間の女中さんでした。一年ほどいっしょにいましたが、そりゃ、ええお人で、親切にしてくださりました。ご主人様のご家族は、だんな様ご夫婦と坊ちゃん、女学生のお嬢さんら七人。近くに売店のお店がごぞいまして、だんな様は朝、店へお出かけになり、夕方戻ってこられます」
「その晩、ご飯は皆様とご一緒にいただきました。忘れもしません。おかずははもの照り焼。京・大阪
の名物やとうかがいましたが、生まれて初めてのお料理でございます。よう食べませんなんだ」

まるでコマネズミ
女中部屋は通りに面した二階六畳間。「およし」とよばれることとなった。朝五時半に起きてご飯たき、幼稚園へ行く坊ちゃんの送り迎え。掃除、洗濯、買い物、夜は十一時
ごろまでぞうきんを刺したり、足袋をついだり・・・。
「仕事はおばさんに教えていただきました。母と同じように、女はどんなええとこへ嫁入りしても、始末
して、よう働かんとあかん、と折あるごとに、いうて聞かせてくれはりました。そのうち、おばさんが
おらんようになると、私ひとり、コマネズミのように働き回りました。晩になるとクタクタ、よう土間
へころげ落ちたもんでございますよ。
やがて髪が長くなり、蝶々にゆう。「蝶々というのは、その時分、十七、八までの女の子の髪型で、蝶
の羽根を広げたように、左右にまげて輪にした形でございます。奥様とお嬢様にゆうていただきました。
だんな様が”ワァッ、きれいなったなァ”とおっしゃいまして、穴にはいりたいようで・・・くずれたら
あかん心配で、その晩はなかなか寝られませんなんだ」